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上田祇園祭(昭和61年の記憶㊴)

2020-07-10 23:06:32 | つぶやき

御作田社 田遊び神事(昭和61年の記憶㊳)より

 

上田博物館 祇園の屏風2双

 

海野町 お船の山車

 

 昭和61年7月11日は、会社の職員組合の定期大会があって、上山田泊まりだった。翌日、上田の知人のところに立ち寄り、まつり同好会の見学会に合流している。

 上田博物館では、祇園祭の屏風を見せていただいた。この時期、上田周辺では祇園の祭りがあちこちで繰り広げられる。市街地で行われる上田の祇園は、数十台の神輿が各町内から出されるという。その祇園祭は、近世においては上田城の長久を祝う寿ぐ祭りとして実施されていたものという。海野町からはお船の天王、原町からはお山の天王が、常田や房山からは獅子踊りが練りだしたという。その祭りを描いた二双の屏風が博物館にあり、原町の呉服商浜田屋伊助が文久3年(1863)の祭礼に曳き出した山姥と金太郎の山車を描いたものが1枚目の写真の屏風である。もちろん今の祇園には見られなくなっており、海野町のお船も明治17年(1884)に巡行を廃止してしまった。現在はお船の山車が町内に飾られるのみとなっている。飾られた山車の脇にいわれを記した看板が立てられている。

此の山車は「お舟の天王様」と呼ばれ、寛政拾弐年(一八○○年)時の城主の肝入りにより東山文化の粋を集めて造られたと言う。因に此の船体には城主松平伊賀守様町奉行村上右兵衛様他、問屋、町年寄、金具師、大工棟梁の名が記されててる。江戸時代には此の山車を引いて街を練り歩き乍ら上田城の御門まで往復したと言う。先頭は舞妓が鐵棒の輪を鳴らし、次は二人ずつ鉾と槍、そして裃袴の二列囃子に挽子と多勢の行列であったとのことである。「明治元年神佛分離のおふれの際に此のお舟の天王様は禰栄神社となった禰栄の神が無事旅を終えられ此のお舟に鎮まり給う時、町内の無事息災を祈ると共に神様をお持て成しするのが当町の祇園祭である。」海野町中

 この後、別所へ向かい前山寺に立ち寄っている。前山寺では、住職より「水天供之節水鉢」というものを見せていただいた。その際に住職と田中義廣氏、田口光一氏のお三方を撮影した写真があった。

 

昭和61年7月12日 独鈷山前山寺にて

 


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