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『ウルフ』の名付け親はもちろん私です。両国に土地買えず江戸川区に井筒部屋興し独立しました【北の富士コラム】

2020年6月5日 22時09分

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記者会見で「分家独立する」と語る北の富士、右は師匠の九重親方=愛知県体育館で


◇コラム はやわざ御免 北の富士場所14日目


 「北の富士場所」も残すはあと2日。いつまでも自画自賛ばかりしてはいられません。引退を決め、翌1975(昭和50)年には井筒部屋を興し、九重部屋から独立しました。内弟子も何人かいましたので、新弟子も含め11人からのスタートでした。現役時代、遊びすぎて軍資金不足で両国に土地は買えず、千葉県に近い東京・江戸川区に猫の額ほどの土地を買いました。
 独立はしたものの肝心の住む家がなく、プレハブを建てて若い力士たちと枕を並べて寝てました。時にはちゃんこ銭にも困り、マネジャーと近くの中川でハゼを釣って天ぷら丼にして食べさせたこともありました。そんな時には、若いころの浪費をつくづく反省したものです。
 「バカなことをしたもんだ」と友人にこぼしたら、「それがあったから今があるんだよ」と笑われてしまったものです。私は部屋を持った時、5年で十両力士をつくると目標を立てました。皆さん、十両くらいなんてと思ってませんか。65歳の定年までやっても、十両を1人も育てられなかった親方は山ほどいます。

横綱審議会での横綱推薦決定の知らせを九重親方(右)の横で聞く千代の富士=名古屋市千種区の相応寺で

 相変わらず貧乏でピーピーしていましたが、弟子たちと苦楽を共にする生活は新鮮な喜びでありました。弟子の相撲に一喜一憂する楽しみは格別なものです。2年もすると弟子の数も20人くらいになり、順調に番付を上げてきています。77(昭和52)年九州場所の番付発表の前日、九重親方死去の一報が入りました。急いで帰京し通夜と告別式をすませ、おかみさんと後援会の人たちが後継者を話し合い、私に白羽の矢が立ちました。
 私に断る理由はありません。「お骨の温かい内に決まった」と当時の新聞に書かれたくらいです。所属の力士たちにはおかみさんがすでに話はつけていたのでしょう。幕内には北瀬海、十両に千代の富士、影虎以下、総勢15人ほど、井筒と九重合わせて30人の大所帯となりました。
 北瀬海は出羽海部屋から独立したときの同志です。千代の富士は北海道松前町の巡業の時に先代にスカウトされて入門したので、私とは兄弟弟子となります。新弟子のころにはよく稽古をつけたものです。当時から足腰が強く力も強かったのを覚えています。目つきが鋭くオオカミのようだったので、ウルフと呼ばれるようになったのです。もちろん名付け親は私です。
 千代の富士のしこ名は先代が自分の千代の山と北の富士の一部を取り命名したのですが、いかに千代の富士に期待していたのか分かります。栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し。のちに31回優勝の大横綱となるのですから、先代の目の確かさには恐れ入る。
 振り返ると必ずしも祝福されることのない出羽海部屋からの独立ではあったが、私も何とか横綱になり大横綱となった千代の富士を育成した功績は大きいものがある。また先代の独立をきっかけに、以来出羽海部屋は独立を許すようになり三重ノ海(元横綱)が武蔵川部屋を興し、横綱武蔵丸、大関は出島、武双山、雅山を誕生させている。
 彼らも引退後、部屋を持ち、将来の横綱、大関をつくろうと頑張っています。それらのことを考えると、先代の独立は偉大な結果をもたらしたと言える。先代はまるで欲のない人で、酒が好き。歌がうまくて頭が良く、どんなに偉い人とでも対等に話ができる。そんな親方を尊敬していました。
 こうして私が「はやわざ御免」を書くようになったのも先代の影響が大きいのです。若いころ、サッポロビール園で大ジョッキ30杯の記録は今でも残っているでしょうか。入院する前日、おかみさんとウイスキーを1本空け、見舞いに行くとベッドの下からビールの空き缶が何本も出てきました。
 「てっぽう柱はどこだ」。これが最後の言葉だったと聞きました。突っ張りの千代の山、享年51歳。あまりにも早い一生でした。しかし、悔いのない一生だったでしょう。明日は千秋楽。書き残したことがたくさんあります。でも私も精根尽きました。でも頑張ります。(元横綱)
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